学会の歴史

小児精神神経学会の歴史
 
 本学会の前身である小児精神神経学研究会は、昭和34年4月5日、当時日赤産院の小林提樹先生による日赤産院内の重症心身障害児の見学会に引き続き、新井清三郎先生(東北大)の米国における小児精神衛生の実際の紹介、平井信義先生(お茶の水大)のドイツの現状の紹介、ついで高木俊一郎先生(九大)の精神衛生相談の実際の報告で幕を開けた。

 その後、研究会設立のためのよびかけ人として、斉藤潔(国立公衆衛生院)、中鉢不二郎(育児会)および中村文弥(慶大小児科)の3先生を発起人として小児精神医学研究会が発足した。この時、小林提樹(日赤産院)、船川幡夫(国立公衆衛生院)および平井信義(お茶の水大)の諸先生が世話人となり、石橋(現在、秋山)泰子先生(慶大小児科)が幹事となり実務を担当された。

しかし、間もなく神経学も共に加わるべきであるとの意見が寄せられ、第63回日本小児科学会総会を機として、昭和35年5月13日に大阪市において、小児精神神経学研究会として、平井、船川、小林、石橋、福山幸夫(東大小児科)が世話人となり改めて発足し直し、発会兼総会が開催された。

当時すでに、国立精神衛生研究所の高木四郎先生など児童精神衛生に意欲的な仕事をされていた方や、東北仙台の新井、九州黒崎の高木など前述の先生方などもおられたが、小児科一般では、関心のある人はまだまだ少ない時代であった。このような状況であったので、会員の範囲はとりあえず小児科でという狭い範囲で発足することとなった。また、研究会の開催にあたっても、小児科関係の人の集まりやすいことを考えて、春は小児科学会、秋は小児保健学会の前後に行うこととなった。

1960年(昭和35年)、この研究会出発まで、小児科医は心身の発達障害、心理的要因・環境要因と密接な関係をもつ疾患、慢性疾患、育児・教育相談、学校保健などの面で、指導・助言を求められながら、児童精神医学や小児神経学の学会も組織されていなかった。この会の設立後、児童精神医学や小児神経学がそれぞれの体系をもつ分野としてめざましい発展をとげた。しかし、この2つの分化した学会には、それぞれの発達の歴史があり、小児精神神経学研究会は、それらと少し異なるニュアンスをもっていることは事実である。

その後、機関誌も日本小児医事出版社から昭和35年11月1日に創刊された。この研究会も回を重ね、次第に活発となり、小児科だけでなく、精神科、心理学、教育学、福祉をはじめ、コ・メディカルの領域も含めた幅ひろい会員層をもって構成されるようになってきた。小児科学会の分科会構想の始まった昭和40年ころ、研究会もその一つにとの話があったとき、分科会とはならず独自の道を歩むこととしたこと、新しい神経学の進歩に伴って、会の名称も精神神経学研究会としたことなどいろいろの経緯をとりながら前進してきた。

 本会を設立当初より支え続けてきた秋山(以前、石橋)泰子先生を始めとする多くの先達の本会に対する思いは、本誌100号記念号:27巻1・2号合併号(1987年)にあり、ここから本会の歴史をさらに深く知るための論文に出会うことができるので参照してほしい。

小児精神神経学研究会は、様々な意見が飛び交う中、将来の担い手が本会を支えていくとき、わが国の小児医療における学問体系の中で仕事を続けやすいようにという先達の配慮の中で、平成4年(1992年)1月1日をもって、日本小児精神神経学会となった。このころ、特集として機関誌に連続して掲載された「わが国小児精神神経学の進歩と21世紀の課題」は、先輩の思いを伝えてくれる。

 このように歴史ある本学会の最大の特徴は、学会に参加して、自分から飛び込めば、多くの先輩達が、日頃の臨床の疑問点、リサーチの相談、過去の研究の流れなどをフランクに教えてくれる。そして最も重要なことは、日頃の職場におけるこの分野を目指す者の孤独感・不全感などを相談すると、多くの、そしてもっと過酷な状況を乗り越えた先輩の話をそれぞれの先生方が淡々と話してくれる。

 「小さきものに手をさしのべ続ける」、小児科医の原点のひとつがここにはある。